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伊藤新道の歴史的な風景

1953 — 2025

伊藤新道史概略

一本の道が歩んだ、80年の物語

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1940年代

伊藤正一
伊藤正一

伊藤新道の由来であり、この登山道を構想・開拓した伊藤正一は、第二次大戦中の1943年頃に度々上高地を訪れ、山小屋関係者との親交を深めていた。同時には単独で裏銀座から初めて三俣の地を踏み、上高地まで縦走。1945年9月には三俣蓮華小屋、翌1946年には水晶小屋の経営権を取得。

しかし北アルプス最奥エリアに位置する各小屋への資材運搬ルートは、どこを通っても片道で最短2日、天候が崩れれば更に時間を要し、これを短縮するため、新道の構想と調査は始まった。

なお、1947年には雲ノ平へも初めて訪れ、美しさに惚れ込み、その地に山荘を建設する決意をしている。

1950年代

伊藤新道開拓(1950年代前半)
伊藤新道開拓(1950年代前半)

新規構想にあたっては、山麓から山上への歩荷による資材運搬性が重視されたが、ポイントは、距離の短縮とアップダウンを極力少なくすることにあった。より合理的なルートを設定するために、あらゆる沢や小尾根まで詳細な事前調査が行われた。そして計画された湯俣川沿いを通るルートは、高山へのアクセスとは思えないほど直線的で、つづら折りの登山道などによって累積標高を最小化するものだった。

1953年 工事開始 → 1956年 開通

こうして1953年から工事が始まった伊藤新道は1956年に開通。早速、山小屋建設のための資材や食料などの荷上げが行われたほか、往来する登山者も増え、1958年には湯俣山荘も建設されている。

完成した伊藤新道を通って三俣へ建築資材を運ぶ歩荷たち(1957)
完成した伊藤新道を通って三俣へ建築資材を運ぶ歩荷たち(1957)

1960年代

1960年代に入ると、伊藤新道を連絡路として使用開始。現三俣山荘の完成(1961)、また初代雲ノ平山荘も同年にはほぼ完成。1956以降の登山ブームも相まり、山は多くの人で賑わった。

1960年代には伊藤正一らが中心となった日本勤労山岳会が発足、高度経済成長を背景とした都市型社会への反動として山や自然を求める心を発信するものであった。

第三吊り橋仮設橋の架橋作業(1956)
第三吊り橋仮設橋の架橋作業(1956)

一方、都市の電力需要を賄うために黒部第四ダム(関西電力)が完成、さらに1969年には、伊藤新道へのアプローチとなる高瀬渓流を利用した高瀬ダム(東京電力)の建設が開始される。

1970年代以降

高瀬ダム着工以降、伊藤新道の通行者は一転して激減。

高瀬ダムが完成した1979年頃からは、湯俣への道のあちこちで各所が崩落、桟道も落ち、ダムの貯水水位による地下水位の上昇に起因していると考えられた。

また、湯俣川の奥から噴き出す火山ガスによって吊り橋のワイヤーが腐食。大雨による土砂崩れなどで5つあった吊り橋は全て渡れなくなり、1980年代には大きく荒廃するルートとなった。

ついに1983年には 一般登山道としての通行は 厳しい状況となった。

38年の時を経て——

現在

地図から一旦姿を消した伊藤新道。2021年からの復活プロジェクトにより湯俣川3箇所への吊り橋架橋などが始まるも、増水などで各所が崩れたりまたすぐに増水や土砂崩れなどで壊されてしまった。その後に自然の力による大きな崩壊が起きないよう、試行錯誤を繰り返した。

現在の伊藤新道と湯俣ブルーの渓流
現在の伊藤新道と湯俣ブルーの渓流

北アルプスの手つかずの自然、そのダイナミズムを全身で受けるバリエーションルートでありワイルドサイドとして、原生林や渓流といった壮麗、湯俣ブルーと称される独特な色の沢など、自然の深い奥行きを感じられる場所となっている。

そして2025年、この道の自然を守るため、ルートの中間地点に保全作業拠点として「クロマメ小屋」が完成した。