山深き湯俣で出逢う、35億年前の海の記憶 |生命の原点「硫黄芝」

北アルプスの最奥、街から遠く離れた湯俣の谷。山道を歩き抜いたハイカーの前に現れるのは、高山植物の緑でもない、あまりにも不思議な芝生が広がっています。川底でフワフワと揺らめくその姿は、一見するとただの水草のよう。しかし、この正体は植物でも、温泉沈殿物でもないのです。これは、目に見えないほど小さなバクテリアたちが無数に集まってできた生命の巨大な集合体で、「硫黄芝」と呼ばれています。
明治の博士が名付けた、「硫黄芝」
湯俣の温泉地帯に足を踏み入れ、ひときわモクモクと立ち込める湯気の源に目を向けると、白色で糸状の物体が、水面をゆらゆらとゆらめいていることに気が付きます。
多くの人は「湯の華?」と首をかしげますが、これは「硫黄芝」といって小さな小さな生物の集合体です。硫黄芝は温泉の中にあるたくさんの硫黄成分を利用して生きており、私たちのような動物は到底生きることのできない70度を超えるお湯の中で力強く成長しています。
これまでも湯俣を訪れ、この「硫黄芝」を目にした人はたくさんいると思います。その見た目の美しさに感動を覚え、写真に収める事はしても、彼らが生命体だと知り生態に目を向けた人はどの程度いるでしょうか?
この硫黄芝という名前が誕生したのは、いまから130年ほど前の明治30年(1897年)。日本の近代植物学者である三好学博士が日光の湯元温泉において見られる数センチにもおよぶ布切れ状の白い硫黄堆積物を研究をするうえで名づけたものです。博士のセンスもあいまって、どこか風情を感じられるネーミングです。
「硫黄芝」。一度聞いたら忘れないくらいシンプルな名前とは相反して、調べてみると素人には生態を理解するのには一苦労です。そんななかでも少しずつ見えてきた硫黄芝の生態、そこには地球環境の変化を知る手掛かりが隠されていたのです。
光の無い環境でも生きれる「究極の生態」
硫黄芝と聞くと植物かと思った方もいるかもしれませんが、そうではなく「化学合成細菌」というグループに分類されます。
私たちが普段目にする「植物」は、太陽の光を浴びてエネルギーを作る「光合成」を土台にして成り立っているのに対し、彼らが生きていくために太陽の光は一切必要ありません。光の代わりに、地球の底から湧き出る「化学物質」からエネルギーを作り出しているのです。
化学合成細菌は、全く光の届かない洞窟などでも、限られた成分さえあれば自給自足で生きることができます。いわば、地球における「ミニマリストの先駆け」的な存在と言えます。
そんなミニマリストの仲間である、硫黄芝は、60〜80℃という熱水の中を好んで生息しています。彼らの主食は、地下深くから温泉とともに湧き出す、人間にとっては猛毒な「硫化水素」です。これをまるでご飯のように食べ、独自の化学反応によって自分たちが生きるためのエネルギーを作り出しているのです。
地球と生命のルーツに触れる。太古の記憶を宿す「硫黄芝」の正体
実は、硫黄芝のような化学合成細菌は、生命の「起源」そのものとも呼ばれており、彼らの生態を知ることで、「地球生命史の謎」を紐解くことができるのです。
地球上のあらゆる生き物のDNA(家系図)を過去へとさかのぼっていくと、ある共通の祖先にたどり着きます。系統樹の最も根っこに近い部分に位置しているのは、まさに硫黄芝と同じ「高温の熱水を好む細菌」たちです。
約35億年前の太古代、最初の生命は太陽の光が届く穏やかな浅い海ではなく、過酷な熱水が噴き出す暗い海底の温泉(熱水噴出孔)で誕生したと考えられています。硫黄芝は、その生命誕生のルーツに近い性質を今も色濃く残している、いわば「生きた化石」なのです。
湯俣の温泉に広がる足元の世界を覗き込むこと。それは、地球に最初の生命が産声を上げた瞬間の記憶に立ち会うことと同じなのです。
地球という大きな世界の中で、あえてミクロな生き方を選び、誕生した原始生命。湯俣の温泉が教えてくれるのは、小さな命が持つ、見た目の美しさと、生き抜くための機能美そのものなのです。
持ち帰れない幻の姿。湯俣という「硫黄芝の楽園」へ
この美しい「芝」は、ミクロのレンズを覗き込むとどんな姿をしているのでしょうか。
そこには、小さな生命たちが生きるために、見た目からは想像できない緻密な構造が隠されています。
そのカタチは、私たちがよく知る「ねこじゃらし」にそっくりです。
中心にある太い軸は、植物の繊維と同じ「セルロース」。細菌たちは熱々の温泉のなかで生き抜くために温泉成分から、自ら大黒柱となるセルロースを作り出し、その周りに小さな細菌がびっしりとしがみついているのです。
さらに拡大すると、その中には無数のきらめく粒々が観察できます。これは細菌たちが温泉成分を代謝して体内に貯め込んだ「元素状の硫黄の粒子」です。
つまり、自ら作り上げたセルロースの柱に、何万という仲間がところせましと居並び、お腹いっぱいの硫黄をきらめかせながら熱水に揺れているのが硫黄芝となります。
硫黄芝ですが、私たちは決して自宅や研究室などに持ち帰ることはできません。
温泉の中から硫黄芝をそっとすくい上げた瞬間にまわりの環境が変わり、バクテリアたちが必死に紡いだセルロースの柱はすぐに形を失って、バラバラに崩れてしまいます。
人間にとっては、70〜90℃の熱湯や、立ち込める硫化水素のガスはまさに「温泉地獄」。しかし、硫黄芝にとっては違います。
絶え間なく湧き出る大好物の硫化水素、体を包み込む熱いお湯、光が届きにくい谷底。ここ湯俣は、硫黄芝にとって必要なものがすべて完璧に揃った、「楽園」ともいえます。
ただの風景として通り過ぎるのではなく、ひとつの場所に留まり、目を凝らす。そのとき初めて、持ち帰ることのできない「幻の造形美」と、今も脈打つ35億年の「生きた化石」が、あなたを迎えてくれます。
これからも硫黄芝を守るために
湯俣のような限られた場所でしか生きられない硫黄芝は、私たちが考えている以上に繊細な存在です。私たち人間のちょっとした行動によって、その美しいバランスは簡単に崩れてしまいます。
湯俣の谷を訪れ、この奇跡の造形美に出会ったときは、ぜひ以下のことを思い出してください。
- 足元に目を凝らし、踏み荒らさない
- そっと見守り、触らない
- 美しい水質を汚さない
私たちが見守ることで、この谷を訪れるハイカーの心を癒し続けてくれるはずです。
この夏、街から遠く離れた北アルプスの深奥、湯俣という地球のロマンが溢れた場所に、ぜひ来てみませんか。
次回予告
湯俣の温泉地帯が教えてくれる地球のロマンは、純白の硫黄芝だけにとどまりません。次回の特集では、硫黄芝のすぐ隣、少しぬるくなったお湯の中で鮮やかなグラデーションを描く「光合成細菌」たちにスポットを当てます。
太陽の光が届かない深海の記憶から、光を浴びて酸素を作り出し、地球の環境をガラリと変えていった生命の大進化。湯俣に隠された、「地球誕生と生命進化」を、美しい写真やイラストとともにさらに深く紐解いていきます。どうぞお楽しみに。
三俣山荘グループ
黒部源流、北アルプス最奥の山小屋。三俣山荘・水晶小屋・湯俣山荘を運営。北アルプス最奥のエリア、鷲羽岳と三俣蓮華岳を結ぶ分水嶺の鞍部に佇み、槍ヶ岳や穂高連峰を眺める山小屋。黒部川の源流域として知られている。周辺には、岩稜あり、花々やハイマツやダケカンバが広がり、沢がはじまっていく。日本の山岳のなかでも特に多様な風景に囲まれている。

