塵のない澄んだ空気を
とおりぬけてきた光は強い
雲が風に飲み込まれて形を変えていく。
風が姿を現す瞬間だ
マジックアワーの空のグラデーション。
あの青は何色というのだろう
太陽の光が葉を通り抜け、
光が形を現していく
高山の風は強く、
植物たちは背を低くし強さを手に入れている
70年の風雪に耐えた山小屋は、
朽ち果てつつ自然に溶け込んでいく
山小屋の意匠は外観によらず、
窓からの風景に宿っているのだろう
周辺の景色LANDSCAPE
三俣山荘Mitsumata sanso Mountain Hut
食事FOOD
ジビエシチュー (ディナー)
約8年前、二ホンジカの高山植物食害問題に端を発し、啓発活動を含めて提供を始めた定番メニュー、鹿のジビエシチュー。赤ワインや塩麴に漬け込み柔らかく煮込まれ、ブーケガルニで香りづけされている。
鹿のしぐれ煮
ミンチ状にした鹿肉を甘辛く煮つけ、筍の食感と共に、山椒で香りづけされている
ジビエ紅葉丼 (ランチ)
一見牛丼のようだが、味わうとしっかりとした食感と鹿ならではの独特な香りが楽しめる
イノシシのサルシッチャ (モーニング)
ミシュランシェフと共同開発した、様々なハーブとスパイスで味付けされたイノシシのサルシッチャは絶品。
鹿、イノシシ共に顔なじみの猟師が捉え、解体師によって捌かれたものだ。
イノシシのサルシッチャ (モーニング)
HISTORY
三俣山荘初代
伊藤正一
初めて目の当たりにした雲ノ平を「天才庭師が完璧に構築した日本庭園」の様だったと後に語った伊藤正一であるが、
この瞬間から長きにわたる黒部現流域の夢多き開拓が始まった
権利を買い取り始めて訪れた三俣山荘は、壁一面に獣の皮が張り巡らされ、
中から出てきた遠山富士弥は、きれいに身なりを整え、
「お泊りですか?」と尋ねてきたという
山小屋への資材運搬にヘリコプターが飛び交う現代とは違い、
1950年当時の物資や建築資材の運搬は、
歩荷という職業の者たちが身を削って行っていた
松本一の料亭の長男だった伊藤正一は、
実家のしさんを揺るがすほどの勢いで、
黒部源流開拓の夢にすべてを捧げていった
1956年建築の湯俣山荘は、当時にしては珍しい鉄筋コンクリートで建築された。
伊藤新道開通に合わせたものである
北アルプス最奥地への歩荷に二日かかっていた当時、
途中で運搬するはずの食料を食べてしまったり、
稀にたどり着かないということもあり、
あまりの効率の悪さに、セスナによる物資投下の実験が行われた
ゴアテックスもなく、セーター等で雨風を凌いでいた当時、
前線や台風が訪れ無理な行動をすれば、夏でも凍死者が出たという。
大嵐で長い停滞をしたあと、ようやく晴れて太陽を浴びる登山者たち
今も昔も変わらぬスタッフたちの日常風景
ヘリコプターによる山岳物資輸送が始まる3年前、
まだ歩荷が建築資材を運んでいたためなるべく軽量で丈夫な建物にするべく、
軽量鉄骨が採用された
今年で築62年になる三俣山荘主屋
ヘリコプターによる物資輸送の開始は、
山小屋の歴史が大きく変わった瞬間の一つである
歩荷の中には剛力と呼ばれる強いものがいた。
この牛梁も優に100㎏は超えているだろう
まだエリート登山が主だった1950年だ当時、「日々激務に追われる、
一般労働者こそ自然の中で癒され、その体験を日常の糧にするべきだろう」との信念から、
労働者を主体とした「日本勤労者山岳会」を結成。
定本
黒部の山賊
黒部の山賊は、たくさんの手下を従えた前科30犯以上の強盗殺人犯であり、
黒部渓谷一帯を荒らし回り、登山者や猟師から金品をや獲物を巻き上げ、
黒部の行方不明者はすべて彼らに殺されたーー当時そんな噂が流れていたが、
著者は何も知らない登山者のふりをして、
自身が経営権を買い取った山小屋を訪れ、小屋主になりすました山賊と対峙するのだ。
三俣山荘
宿泊情報